ブッダは『悟りは体験を通して得た智慧である』と、人々に伝えました。
現代風にわかりやすく言えば、ブッダは『悟りはスキルである』と明確に言ったのです。
つまり悟りは頭で解釈する『知識』などではなく、ましてや、神や奇跡の力などでもありません。
ですから、たとえ僧侶からありがたい法話を聞いたり、本や経典を読んでブッダの教えをいくら学ぼうが、増えるのはただ『知識』だけですし、お経や祈祷にいくら精を出しても、そのような儀式のやり方のスキルは得られるでしょうが、それは悟りのスキルとは全く別物です。
そのようなことでは『智慧(スキル)』は得ることなどできず、『悟り』に辿り着くことなどできるはずもありません。
私の生徒さんたちは仏教やブッダの教えを熱心に学んできた人も多く、仏教的なヴィパッサナー瞑想を指導する僧侶に師事し、足繁く奉仕に精を出してきた人などもいましたが、皆どう解釈すれば良いのか頭が混乱してしまって、もっとわかりやすい教えを求めて苦しんでいました。
悟りは考え方や解釈によって得られるものだと思い込んでいたり、信心によって授かれるものと勘違いしていたり。
なぜそうなってしまうのかというと、悟りの教えや理論であったり、ブッダの言葉などを教える人たち自身が、悟りを『知識』だと思い違いをしているがゆえに、考え方や解釈などを説法し、頭の中の知識を教えることに偏っているからです。
彼らは『智慧』というブッダの本質を正しく理解できていないのです。
『智慧』は頭では理解できません。頭で理解したものはただの『知識』です。
『智慧』は体験を通してこそ理解でき、身につくのです。
ではその『悟りの智慧』『悟りのスキル』は、いったいどのような体験を通せば得られるのでしょうか?
まさにその『体験の積み方』を教えていたのがブッダであり、それこそが『ヴィパッサナー瞑想』という『体験の実践法』なのです。
悟りは『智慧(スキル)』ですから、誰かに授けることも、誰かから授かることもできず、体験を積んだ本人だけの身に付くものです。
ブッダは言いました。
「自らの足で歩き続ける者は、誰でも悟りに辿り着くことができる。」
自らの実践を積んで、悟りのスキルを身につけるのです。